西国三十三所巡礼とは

西国三十三所・伝説と歴史

「巡礼」とは信仰を確認し、より深めようと霊場に旅することをいいます。 これは世界に共通する行動で、キリスト教やヒンドゥー教においても同じです。 世界の巡礼は、一つの大きな巡礼地があり、その中の礼拝所に参拝するといったようなものです。 その巡礼地に向かう途中の小さな聖地にも参拝します。

日本の巡礼は、一定の地域のなかにある聖地を、数を限定して巡るのが主です。 その数とは、「西国霊場」の三十三であるとか、「四国霊場」の八十八であるとかの宗教的な意味を持つ数

(西国観音巡礼の他に、四国八十八通路や坂東、秩父の観音巡礼など日本各地に様々な巡礼コースが 設けられている。)

西国観音巡礼は、そのような中でも、最も歴史が古く、参拝者が多い事で知られています。


観音巡礼の開創伝説と再興

養老二年(718)のある日、大和長谷寺の徳道上人は、病のため仮死状態になったとき、夢の中で 閣魔王に出会う。闇魔王は「おまえはまだ死ぬ事を許さない。世の中には、悩み苦しむ人々が たくさんいる。 その人々を救うために、三十三箇所の観音霊場をつくり、人々に巡礼をすすめなさい。」といい 起請文と三十三の宝印を授けた。上人は仮死状態から蘇り(黄泉がえり)閣魔王から賜った 「三十三の宝印」にしたがって三十三の霊場を設けるが、世の人の信用を得られず巡礼は発展 しなかった。 上人は巡礼の機が熟するのを待つため、その宝印を攝津の中山寺の石櫃に納めた といわれています。

途絶えていた観音巡礼が約270年後、花山法皇によって再興されることになります。

先帝円融天皇より帝位を譲られ第65代花山天皇となられますが、在位わずか二年で皇位を退き 19歳の若さで法皇となられました。その後、比叡山で修行し、書寫山の性空上人、河内石川寺の 仏眼上人、中山寺の弁光上人等を伴って、那智山において修行し、西国観音霊場を巡拝され 観音巡礼を再興されたのです。


徳道上人と花山法皇

徳道上人は、『長谷寺縁起』などによりますと、斎明天皇2年(656) 播磨国拼保郡に生まれ 俗性を辛矢田部米麻呂といいました。11歳で父を、19歳で母を失い、その菩提を祈るため 21 歳の 時に大和国初瀬の弘福寺の道明について出家しました。天平5年(732) 楠の霊木から三丈三尺六寸 の十一面観音を刻み、これを本尊として長谷寺を開創しました。 晩年は長谷寺門前町の法起院に隠棲し、80歳で松の木の上から法起菩薩と化して去ったといわれ ています。現在、法起院は西国番外札所になっており、徳道上人を本尊とする本堂、廟所とされる 十三重石塔、沓脱ぎの石などがあります。

花山法皇は、冷泉天皇の第一皇子として安和元年(968)に生まれ、永観2年(984) 17歳で 円融天皇より帝位を譲られました。しかし、最愛の弘徽殿女御(藤原伊尹の娘)の死により無常を悟り 元慶寺において落飾され、寛和2年(986)19歳の若さで法皇となられました。その後、書寫山の 性空上人と結縁し、比叡山や紀州熊野那智山に参籠、修行し、三十三所観音霊場の巡礼を発願 しました。性空上人、仏眼上人等と共に巡礼、観音巡礼を復興されたのです。

晩年は、摂津国花山院(兵庫県三田市)に住まわれ、寛弘5年(1008)2月8日、41歳の生涯を 閉じられました。花山院には、御廟と称する宝篋印塔があります。

観音巡礼の創始者といわれる徳道上人と、それを再興した花山天皇とは、我が国の巡礼の歴史に おいて最重要な人です。現在でも、法起院に残る「替脱ぎ石」には、触れると願い事が叶うという 言い伝えがあります。


巡礼の歴史

形態づけられていない原始的な巡礼は、古神道に基いて日本にもあったとおもわれますが、本格的な 巡礼としては、近畿地方における三十三所観音巡礼が最初です。

資料としては、嘉禄~天福年間(1225~1234)成立の『寺門高僧記』第四に収録されている 園城寺の僧行尊による「観音霊場三十三所巡礼記」が最初です。

行尊の巡礼は寛治4年(1090)のころとされており、第一番長谷寺から始まり第三十三番千手堂 (三室戸寺)まででした。その後、三井寺の覚忠が巡り、番付は異なりますが所属寺院は現行と 同じでした。この巡礼では第一番が那智山で第三十三番は三室戸寺となっています。 今日の巡礼を決定的なものとした点において、歴史的意義が深いと思われます。時代が下がるに つれて、伊勢神宮参拝や熊野三山参拝などと結びついて盛んになっていきました。

近畿地方に続いて、関東地方の坂東三十三所が開創されるに及んで、近畿地方の観音巡礼は「西国 の文字が冠されるようになり、室町時代には秩父巡礼も開創されました。その後、秩父観音霊場の割に 込み運動などがおきましたが、打開策として一ヶ所増やし三十四ヶ所とし、西国、坂東と合わせて 日本百観音が提唱されたのです。今日までに、六百コース以上が全国各地に開創されましたが 西国三十三所の移し巡礼が多く、坂東や秩父の移し巡礼もあります。なかには、北海道三十三観音 霊場や粕尾三十三番(栃木県)など、西国三十三箇所の本尊像を各札所寺院に配したケースなども 設けられています。


御朱印

もともとは、札所本尊を安置する堂宇の柱などに、木製か金属製の納札を打ちつけた事から 札所寺院に参拝する事を「打つ」といいます。現在では、紙製の納札を納札箱に納めますが 札所参拝は、打つと表現します。その札所を打った証として、朱印帳(納経帳)・納経軸・笈摺 ・色紙等に受ける朱印の事を御朱印といいます。納経印・宝印ともいいます。

徳道上人が冥府で閻魔王から授かった三十三所の宝印が起源といわれています。 一般に三つの中で構成され、右上に札所番付の札所印、中央に札所本尊の梵字を刻んだ本尊印 左下に札所名の寺院印が押され、本尊名などが墨書されます。

御朱印は札所本尊の分身とされております。

※参考資料 白木利幸「巡礼参拝用語辞典』1994年 朱鷺書房 「西国三十三所一観音霊場の伝説と歴史」1995年 西国三十三所札所会